ナショナリズムを越えて

2014年07月16日

ブラジルワールドカップが終わりました。
僕は4年ごとにサッカー世界一を決めるこの大会が楽しみでなりません。
僕はサッカーファンというわけでは必ずしもありません。Jリーグは見たこともありません。ましてや「侍ジャパン」とかいう気持ち悪い和語と外来語で表される日本サッカーチームの応援をしたいわけでもありません。僕はナショナリズムからは相当遠い人間なので、それが「日本のチーム」だからという理由で、見ていて退屈なレベルのサッカーを応援する気にはなりません。
ワールドカップのサッカーが好きな理由は、いくつかあります。
まず驚異的なテクニック、運動能力、反射神経、スタミナに基づいたプレーの連携。ほとんどの国ごとのサッカーに存在する、明確なチームカラーや戦略性。これだけならばクラブチーム世界一トーナメントの方が完成度は高いのかもしれませんが、ワールドカップは国別なので、国ごとの体格が大きく違う。ドイツやオランダチームは平均身長が190センチ近くでがっしりとした骨格です。対してアルゼンチンや南米の多くのチームは170センチ台ですが首、手足が太くて短い感じ。アフリカ諸国は手足がとても長く、上半身の筋肉が見事です。これほど多様な体格のチームが一つの競技で互角に渡り合うことができる場はワールドカップしかないのではないでしょうか。
決勝リーグに勝ちあがれるチームの選手たちは自分の持てる力の全てを出し尽くして90分間、ときに120分間戦います。たとえ総合力で大きな差があるチームでも明確な戦略とそれを支える精神力で強豪と互角の戦いをする。そして瞬き一つの時間で勝者と敗者が分かれる。
選手たちが死力を尽くしたプレーをするのも、「勝利を母国に」という思いがあるからでしょうし、実際観客の応援もナショナリズム丸出しです。それが試合に緊迫感と高揚をもたらしているのも確かです。しかし僕たちが感じる深い感動は、どの国であるかとか、選手がどのような苦境を乗り切ってきたからといった物語とは関係ありません。断じて関係ない。そんな安っぽいものであるはずがない。
この瞬間の感動は人の身体の可能性、あるいは一つの目標に集約された集団の力の到達点を目の当たりにしたからであるに他なりません。
だからこそ、観客たちはすばらしい試合のあとで勝者にも敗者にも、それが自国のチームであろうがなかろうが賞賛の歓声を送るのだろうと思います。

今年のワールドカップは本当によい試合がたくさんありました。何度も胸を熱くしました。
国別の大会であるからこそ、人々に感動を与える試合は国や民族といった根深いナショナリズムから僕たちを解放する力があると信じます。
人と人は尊敬し、理解し合えると信じます。
また4年後が楽しみです。